2016年6月18日土曜日

主張を超えたまなざし


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1992年4月号)

主張を超えたまなざし


 イギリスのビーター・ラッセル氏から、氏の最新刊『ホワイトホール・イン・タイム』とい
う本が送られてきた。この本の内容についてはいずれ紹介したいと思うが、この中に特に心に
とまった一文がある。それは、“愛の反対は憎しみというが、そうではなくて愛の反対はジャッ
ジするということである”という氏の見解である。ジャッジするということは審判するとか評
価するとかいうことであろう。とすれば我々はなんと愛なき世の中に生きていることであろう
か。教育からはじまって科学、産業、政治、経済、あらゆる現代の生活がジャッジすることで
固められている。催眠術にかかったように評価の世界にどっぶりつかっている。
 数年前に余話翠巖老師にお願いして、唯嫌揀擇(唯揀擇を嫌う)という字を書いていただい
た。この字はよりごのみしないという意味であるが、評価のない世界に住んだ時に全宇宙との
調和が実現しているということなのだと思う。
 六月にブラジルで開かれる地球サミットでは、全く意見の異なる立場の人達が参加しようと
している。例えば、原子力発電を推進することによって地球をクリーンにできると主張する人
達と、原子力の使用は破局的に地球を汚染すると訴える人達である。森林伐採や人口などにつ
いても対立意見がある。しかし、今一番重要なことはどんな意見にも耳を傾けることであろう。
つまり地球規模のグラスノスチである。ビーター・ラッセル氏は前著『グローバル・ブレイン』
で、人類が地球をグローバルに意識する力をもつ時代の到来を予言した。それぞれの主張を超
えたまなざしが要求される。(MM)
                         1992年4月10日発行

(次世代のつぶやき)
聖書には、「愛」と「赦す」という言葉がたくさん出てきます。基本的にどちらもジャッジのない世界の次元の言葉だと思います。逆に言うとジャッジしている世界では、愛はないともいえます。
(2016年6月16日 増田圭一郎 記)