2016年6月5日日曜日

純粋学問と実用学問


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1991年7・8月号)

純粋学問と実用学問


 用即美という言葉がある。機能的、実用的なものは美しい、あるいは美しいものは機能的、
実用的であるということであろう。これに対して、そうではない、美は美そのものとして追求
すべきであって、目先きの現実にとらわれない美意識が大切であるという人もいる。
 また、哲学の世界でも一般の生活感覚との接触を嫌う学者が多い。一旦実用の世界と交流を
するとその学問の主流からはずされていくことがある。確かに芸術にしても哲学にしても時代
にとらわれたり、迎合しすぎると、元も子もなくなってしまう。
 だいぶ前から私は、古代中国の思想家である老子についてよく知りたいという思いがあって、
いつか老子研究者の先生方に“生きている老子思想”を語っていただくシンポジウムを開きた
いと考えていた。この会には学識者だけではなく、老子に関心をいだいている一般の人々の参
加が重要だと考えている。幸い中国の老子研究者と接触が得られ、「老子の思想の現代における
価値」というテーマでシンポジウムをやりたいと話すと、このやや実用的な匂いの話に、案の
定難色を示された。長時間のやりとりの中で私が、「遠い星に規準を合わせて、しかも大地にし
っかり立って生活している人との交流は学問の普遍性を損なうどころか励ましになるはずだ」
と言うと、三人の哲学者が、それなら日本でやってみましょう、と答えて下さった。いま日本
の老子研究者の参加を呼びかけている。
 純粋学問だ、やれ実用学問だと理屈をこねている私たちを「無為自然」を唱える老子が見た
ら何と言うだろう。大声をあげて笑い出すに違いない。(MM)
                         1991年7月10日発行

(次世代のつぶやき)
先日から、総合目録をリニューアルするために、かなり前に出版した押田成人神父の『孕みと音』を読み直しました。押田神父の言っていることは徹底して、純粋学問や実用学問などといって分けていることへの批判です。真実はひとつ。そこをしっかりと見なさいといっています。『孕みと音』は、ちょっと経年劣化していますが、押田神父の本で唯一在庫があります。ぜひおすすめ。
(2016年6月6日 増田圭一郎 記)