地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。
(月刊「湧」1987年9月号)
金環食
名月の十五夜が近づいている。「左が欠けていれば上弦の月、右が欠けていれば下弦の月、欠け方は上下でなく左右で区別するんですよ」。親しい人と一緒に月に出会うと、きまって私の口ぐせが出てしまう。月を見て咄嗟に上弦、下弦がわかる人は少なくなった。月の見えない所で今日の月齢はと問われて答えられる人は更に少ない。それほど天体は我々の暮しから遠のいてしまった。
さて、九月二十三日は新月である。その日沖縄では金環食が見られる。本邦では今世紀最後だというから、さぞかし沖縄便はマニアでいっぱいだろうと、旅行会社に問い合わせたら、満員ではない、むしろシーズンオフだから安い切符があるという。こんなことに熱心になる自分はおかしいのかと考え込んでしまった。
三十年前、私は感動の日食を見た。見たというより体験したと言った方がよいかもしれない。その日、ローソクの油煙で黒くした板ガラスを通して、月に蝕まれていく太陽に見とれていた私は、ふと地上に目をやると、木漏れ日が三日月形をしているのに気づいた。あのハリ穴写真機の原理である。思わず歓声をあげながらいちょうの並木道に出てみると、一面に何百何千の三日月形の影絵が輝いている。それが風に吹かれてきらきらと揺れ動いている。長い間全身を無数の三日月太陽に包ませて、わけもなく感慨に耽ったその日を私は今でも鮮明に覚えている。
その日食がやってくる。今度のは金環食だ。木漏れ日は環を作るのだろうか。木陰の大地一面にダイヤモンドリングがふりまかれるのだろうか。この世紀の天体と自然の共演を見逃すわけにはいかない。 (MM)
1987年9月10日発行
(次世代のつぶやき)
日光が三日月型に映っているのを偶然発見したときの感動は、すごいものに違いないですね。自然現象がつくり出す芸術には、有無を言わせぬ、すごさを感じます。人間が勝手にすごいと思っているだけなので、ある意味これこそ人間しかできない自然の客観視、というか客対視。ここで我が事と感じるかどうかの分かれ目は、その時ワクワクするかどうかのような気がします。(2016年1月28日 増田圭一郎 記)