2016年3月26日土曜日

情けは人の為ならず


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1989年9月号)

情けは人の為ならず


 「情けは人の為ならず」ということわざがある。今までこれは「人のために情けをかけるの
はその人のためばかりでなく、やがて自分によい報いがあるものだ」という意味だと思ってい
た。ところが最近、ことに若い人は「情けをかけると相手のためにならないから情けはかけな
い方がよい」というまったく反対の意味で使うという。そこで大勢の人に聞いてみたら結果は
両方に分かれてしまう。国語辞典などははっきり前者に軍配を上げているのだが。
 さて、このことわざはいつ、誰が、本当はどんな意味を持たせて作ったのであろうか。こう
考えているうちに、どうもこれは日本語で創作したにしては不自然な言葉だと疑いを持ちはじ
めた。それではもし、漢文であったなら何と書いたであろう。
 「情 非 人 為」と書いていたのではないだろうか。
 これを「情ハ非人為」つまり、情けは人為にあらずと読んだら、前の二とおりの解釈とはま
ったく別の意味になる。情けの心は始めから備わっているもので意識的にやりくりできるもの
ではない。たとえば、ベランダから今にも落ちそうになっている幼子を見たら誰でも適否是非
善悪の判断以前に助けに走る。そのことを「惻隠の情」というが、ちょうどこのことを表して
いるのではないだろうか。
 「情けは人の為ならず」には功利的響きがあり、こう読んでいると人の世は住みにくくなる
ように思えてならない。実際の生活の中のほとんどの行為は「情非人為」なのであろう。どな
たか正確な由来を教えていただきたい。(MM)        1989年9月10日発行

(次世代のつぶやき)
新渡戸稲造の言葉に、
施せし情は人の為ならずおのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても人の恩をばながく忘るな
とあります。
これも、功利ではないとはいえ、処世訓だと思います。
故事の多くに功利主義が見えるのは、世をうまく渡るための処世訓で、境地を語っているものは少ないからではないでしょうか。(2016年3月24日 増田圭一郎 記)