2016年4月26日火曜日

永遠性


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1990年12月号)

永遠性


 今年、対称的な二つの地域を相次いで訪れたのは偶然の取り合わせであった。
 一つはヨーロッパである。中でも殊に、パリの町は芸術的な建物が、どこまでも広い地域に
わたって整然と立ち並んでいる。これらは数百年を経た古い建物で、ヨーロッパ文化の粋を充
分に感じさせてくれる。また観光地スイスには、山をくり抜いた長いトンネルの中を、車に乗
ったまま人を運んでしまうカートレインや、七十年も使っているという絶壁をよじ登るケーブ
ルカーなど、莫大な資金と労力をつぎこんだ付加価値の高い施設がたくさん造られている。め
ったに壊れることのない、長持ちするこのような建造物から、恒久的、普遍的なものを求めて
やまないヨーロッパ人特有の価値観を感じる。
 一方、外モンゴルでは国のほとんどが森と草原と砂漠、それにおびただしい数の家畜や動物
ばかりで道路は未整備であり、宿泊施設はほとんどない。自らテントを持参しなければならな
い。都会のほんの一部を除き広大な土地は遊牧地で、人々は季節が変われば組立て式の住居(ゲ
ル)をたたんで移動する。去った後には人間の造ったものは何も残らない。
 文化遺産的価値や経済原理で見れば、ヨーロッパの恒久的な施設や建物は堅牢で価値が高い
のであろうが、この地では永久に生き物の呼吸が断ち切られ、生命の再生産はない。いのちの
永遠性という視点で見れば、モンゴルの遊牧地の方がはるかに価値ある存在のように思う。パ
リは三日で疲れるし、スイスも一週間で退屈したが、モンゴルの草原は一ヶ月いても飽きるこ
とがない。この対置はそのまま今の地球上の大きな公案であろう。(MM)
                         1990年12月10日発行

(次世代のつぶやき)
永続的ないのちを、人間のレベルでみるか、人間を越えたレベルでみるか?当然人間のレベルでは、しょせん行き詰まるような気がします。だってほんとうに永続的を求める気がいまの人類の自我レベルではないですね。そう思って『老子(全)』(王明 校訂)を読むと、何かちょっとわかる気がします。おすすめ。(2016年4月25日 増田圭一郎 記)