2016年4月22日金曜日

いのちのサイン


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1990年11月号)

いのちのサイン


 毎年のことだがこの季節になると山々が予想を上回って派手な色どりとなる。秋は紅葉と決
まっているのに、実物に出会うとこんなに色どりが豊かだったのかと驚く。
 きのう日本橋のデパートで、本の装幀展の中にミロの絵が一枚置いてあって、ふと足を止め
た。その絵から出ている気迫というか気配というか、そんなものに引き寄せられている自分に
気づいた。三十年以上前に上野の美術館でゴッホの「糸杉」や「自画像」を見たときに受けた
のと同じような、いのちのひびきと共に、作者がそこに実在しているような新鮮な感情を味わ
った。年代が経てもこのようなエネルギーを出し続ける作品に出会うと、その不思議な力の要
素を考えてしまう。それは技術や巧みさとは違う。その人の教養や人格でもない。
 信州の民芸研究家のところで見せてもらった、江戸時代に作られたと思われる無銘の茶わん
にも同じ活き活きとしたものを感じた。作者は妻子を養うために一日二百個分くらいロクロを
回したに違いない。決して作品を作ろうなどとは思っていなかっただろう、とこの研究家は言
う。
 このように作者の生きていた時の生の姿が感じ取れるのは、形をもつものに限らない。音楽
や文章からも作者と同時に生きている自分を感じることがある。そんな時元気を得る。この間
もシャーリー・マクレーンのショーを観た帰りに、疲れた体が癒えているのに気がついた。そ
こには物質的な授受がないのに明らかに変化が起きる。人が深い感動や喜びや安らぎや元気を
得るこのような働きを、いのちのサインとでも呼んでみたい。(MM)
                         1990年11月10日発行

(次世代のつぶやき)
いのちのサインは、人が一生懸命に無私になって作るものに宿るのでしょう。それは天然自然が時々作り出す。素晴らしい景色と同じような気がします。
(2016年4月22日 増田圭一郎 記)