2016年1月7日木曜日

水感覚


地湧社は、創立以来月刊誌「湧」を発行してきました。
「湧」は、単行本をはじめとする出版活動の宣伝をするとともに、地湧社の設立理念を明確にしていく広報的役割を果たしてきました。
30年目の今年、改めて原点を振り返り新しい一歩を踏み出すために、第1号からの巻頭言を1日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1986年7月号)

水感覚


 近頃は、生活の中で手を加えた飲み物が多くなって、水を飲む機会が減っている。身のまわ
りにはありとあらゆる商品化された飲みものが氾濫し、食生活とともに飲み物のし好も大きく
変化している。緑茶、紅茶、コーヒー、ウーロン茶、ジュース類、酒類、健康飲料など、多様
化した飲料がなだれ込む。水だけで一日を過ごす人は、皆無ではなかろうか。
 このように水と直接対話する習慣が少なくなるということは、水の質を維持していく上で、
甚だ危険なことのように思えてならない。
 地方から都市に出てきたら、都会の水が悪くて顔が洗えないと嘆く女子学生がいた。水がま
ずくて飲めないというのは分かるが、洗顔できないとは、少し過敏すぎるのではないかと思っ
ていた。ところが、私自身がアメリカのカリフォルニアに旅したとき、そこの水はいやな違和
感があって、入浴はおろかシャワーを浴びるのさえためらった。ワシントンでも同じ経験をし
た。そこに住む人は平気なのだろうが、慣れは恐ろしいものである。考えてみれば、私達日本
人は、各地の温泉の味の違いを皮膚感覚で楽しんでいるし、同じ水であっても薪で沸かした湯
は、肌に優しく気持がいいと言ってきた。
 たしかに我々の感覚は鈍磨し、同時に良い水が次第に姿を消してゆく傾向にある。
 私は、水の良し悪しを峻別選択するのに、先の女子学生のように皮膚感覚を起用することを
提唱したい。舌先(味覚)だけの都合で、良い水が失われてゆくことがないように。(MM)
                               1986年7月10日発行

(次世代のつぶやき)
水は、見える世界と見えない世界のちょうど架け橋のような気がします。空気よりはちょっとだけ見える世界に近い感じ。水の違いを皮膚も使って感じるというのは面白いです。
一昨年刊行の『じねん36.5°《水号》』に出てくる、弁護士でありながら、水の神様の神社の宮司、塩谷崇之さんの水の話しはつながるので、ぜひお読みください。
5月に出版予定の宮嶋望さんの新刊『生きろ!ともに生きろ!』(仮題)には、世界に発する和の文化の章で、水に関するとても興味深い話しが出てきます。こちらもお楽しみに。
(2016年1月7日 増田圭一郎 記)