2016年1月18日月曜日

地球ぐるみのバイオエシックスを


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1987年1月号)

地球ぐるみのバイオエシックスを


 バイオエシックスは一般には「生命倫理」と邦訳されている。
 先日、産業医科大学の主催で『バイオエシックスを考える研究会』という会が開かれ、招かれて出席した。最初は医者でも専門家でもない私がどうしてこの会に呼ばれたのかという思いと、バイオエシックスという言葉に接するたびに何か心隠やかならざるものすら感じていたのでその出席をためらった。バイオエシックスというこの単語はたいてい臓器移植、試験管ベビー、男女産み分け、遺伝子組み替えなど医学の先端技術の問題と一緒に出てくるので、進歩という名のもとに結論を強いられているような気がしてならないからであった。しかし、このような思いは杞憂であった。
 この研究会では様々な立場や視点から発言があり、私なりに要約すると、「バイオエシックスの問題はもともと発生の段階から個体レベルの『生存』追求に偏っているきらいがあり、このままだと局所的議論に終わってしまい、生命全体の問題解決力とならないし、むしろ事態を悪化させることにもなりかねない。原爆や環境汚染などによって地球全体がどうなっているか、ということも含め専門家だけでなくみんながそれぞれの哲学で考える時代がきている。『生命』全体を育む文化として、バイオエシックスをとらえれば、芸術や宗教などあらゆる分野の、いのちを愛する良き営み全部が含まれるということになろうか。
 バイオエシックスの問題は誰でも参加できる、あるいは既に誰もが参加しているのだ。この会の主催者の意図はそのようなところにあったように思えた。  (MM)
                               1987年1月10日発行

(次世代のつぶやき)
いま、詩人の覚和歌子さん著のオラクルカード「ポエタロ」を制作中です。覚さんは、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」の作詞をされていますが、その詞の中に、“ 生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街も みんなおなじ”というくだりがあります。バイオエシックスという学問を使わないでも、みんな自分の心の目で奥深くを覗いていけば、いのちの海にのたどり着けるのではないでしょうか。
(2016年1月18日 増田圭一郎 記)