2019年1月7日月曜日

あけましておめでとうございます

しばらく更新をしていませんでしたが、昨年9月から始めたメールマガジンと合わせてブログでの発信を再開します。

以前、連載していた、地湧社発足時からの雑誌『湧』の巻頭言に加え、新刊、既刊本にまつわるエピソードなどを掲載していきます。




120日まで、上野の国立西洋美術館で、「ルーベンス展」が開催されています。
観に行かれた方もたくさんいらっしゃると思います。

ルーベンスは、17世紀の画家で、教会などで依頼されて描いた大きな宗教画が多く残されています。
さて、今回の展示会では、国立西洋美術館の公式サイトには一切載っていないにもかかわらず、
「フランダースの犬」のネロが見たルーベンスの絵という売り出しがされています。
日本では、ルーベンスよりも、「フランダースの犬」の方が、はるかに知名度が高いからでしょう。

さて、ここからが本題です。
地湧社では、2016年『ネロの木靴 ~「フランダースの犬」ネロはなぜ自殺したのか』という本を出しました。
この本は、ネロの幼馴染の少女、アロヨのその後の人生を軸に創作として書かれたもので、
ネロが教会で凍死をしたことをずっと気にかけながら生きていくことによって心の成長をする、
アロヨを通して、著者の人生観が綴られています。

日本でアニメ化された「フランダースの犬」では、最後に念願のルーベンスの絵を見ながら、
愛犬のパトラッシュと天国に上がっていく場面で終わります。
絵のコンテストに落ち、財布を盗った濡れ衣を着せられ、散々な状況で死んでいくのですから、
悲惨な最期です。
涙と感動という意見もありましたが、不条理な中で死んでいくことに対して、不快感を覚えるという感想も多くありました。

この『ネロの木靴』では、ネロの死を通して、「死とは」「生とは」、私たちのこれからの生き方について、ある示唆がされています。
アニメーションのなかでは、ネロは、パトラッシュに「なんだかもう眠くなったきたよ」というセリフで終わるのですが、
イギリスの作家ヴィーダの書いた原作では、「パトラッシュ、一緒に死のう」と明確に死を意識しています。
当時強く自殺を禁じていたカソリックの教会で、しかも厳格なルーベンスの宗教画の前で自殺することはかなり禁断を破る行為であったはずだと著書の臼田さんはおっしゃいます。
アロヨは、このあと靴職人と結婚し、都会のアントワープから遠く離れた森で暮らし始めます。
そのなかで、義父の死や自分の子どもと向き合いながら、大家族で自然に囲まれながら、人生を見つめていきます。

 ルーベンスの生きた17世紀は、ルネッサンスを経て宗教改革の時代、まだまだ貴族による封建社会です。
「フランダースの犬」の舞台設定は19世紀のベルギー、市民革命真っ只中です。
まだ、富めるものと貧しきものとの大きな隔たりがありましたが、「フランダースの犬」には、虐げられている貧しき者たちからの強烈なメッセージが込められています。
『ネロの木靴』には、市民革命につながるささやかな一般民衆の目覚めも書かれています。

ルーベンスの絵もそうですが、当時の教会のために書かれた多くの絵は、神との交信のために書かれたものでしょう。
正教会で使われるイコンという聖画もそうですが、書かれた絵に対してではなく、その対象について崇拝するものですから、本来信仰の対象として見るべきものなのでしょう。
今回上野で同時にやっている、フェルメールやムンクの展示と違い、キリスト教の背景を少し知って見るとまた違って見えるかもしれません。

『ネロの木靴』もご一読いただけるとまた、見方が変わってくると思います。